ジャーナリストか研究者か?――二足の草鞋を履く日々
この9年間、私は二足の草鞋生活を送っています。
私はフィリピン人研究者であると同時に、講師、非常勤教授、教師、タイのウォンチャワリッタクン大学でEFL(English as a Foreign Language)を教える「Ajarn」(教授、教師を意味するタイ語)でもあります。また、St. Robert’s Global and Transnational Education(バンコク)ではライティングの指導を行なっています。大学の講師として、私たちは、高名な学術誌(スコーパスにインデックスされているジャーナルか、TCI(Thai Citation Index)のジャーナルが望ましい)で少なくとも1本の研究論文を発表し、国内外の公認国際会議で研究発表することを義務付けられています。
私は2011年に、より良い環境を求めたフィリピン人約1000万人によるディアスポラ(海外移住)に参加しました。私は、2つの学士号と、海外の大学での「post-graduate degree」、修士号(どれもジャーナリズムとは無関係ですが、研究の実施、論文の執筆、レポートの作成を求められました)を持っていることと、数多くの論文を出版した経験をもとに、2011年にタイでOFW(Overseas Filipino Worker、フィリピン人移民労働者の総称)となりました。
同時に、ジャーナリストとしての活動も始めました。
私が抱える課題
私の研究論文はどれも、当初はプロフィール記事もしくは特集記事として書かれたものでしたが、そのうちの1つに、2018年にAsian EFL誌で出版された「Tourist to Ajarn: The Filipino Teachers in Thailand(観光客からAjarnへ:タイのフィリピン人教員たち)」という論文があります。この論文は、タイのフィリピン人教員の体験をまとめたものとしてPhilippine Daily Inquirerから出版され、その後オンライン版がInquirer.netで公開されました。その後、アップデートしてリライトしたものが、学術論文としてKyoto Review of Southeast Asia誌に掲載されました。
私は、異なるレンズを通して物事を見ています。尊敬すべき同僚ライターや同僚研究者たちも、これには同意することでしょう。ただ、もちろん、そこには欠点もあります。
私は、この体験談をシェアすることで、私の人生におけるジャーナリズムと学術の共通点を探ろうとしています。ジャーナリスティックライティングは、研究者としての私の強みとなっているのでしょうか?逆に、学術論文にジャーナリスティックな側面が付与されることで、論文が分かりにくくなっているのでしょうか?私が携わるこの2つの職業は、どのように交差しているのでしょうか?
分かったこと
まずは、アカデミックライティングを定義してみたいと思います。具体的には、主に学術界または大学の利益のために執筆され、まずは学術会議で発表されて、その後出版のためにジャーナルに投稿される論文について定義します。
学術研究とアカデミックライティングは、どちらも多くの時間を要します。たとえば、所属大学の看護学生のタスクベースの読解力に関する研究プロジェクトを終えるのに、私は2学期を費やしました。プロジェクトを完遂するためには、観察、実験、試験を行い、さらに関連研究を調べる必要もありました。英文誌への掲載が望める5000ワード10ページにおよぶ研究論文(表3点と膨大な計算データも含む)を完成させるには、多くの時間が必要でした。この論文は現在も査読中ですが、いずれはインデックスされた学術誌に掲載されることを願っています。
一方、ジャーナリスティックライティングは、アカデミックライティングとはまったく異なるものです。多くはAP通信(AP)のスタイルに基づいており、逆ピラミッド型の構造と簡潔さが重視されます。ジャーナリスティックライティングは一般的に、マスメディアでの流通のために書かれた記事であり、ニュース記事、プロフィール記事、特集記事、意見書などの形でアウトプットされます。私の場合は、印刷とオンラインの両方の新聞に記事を提供しています。
ジャーナリズムでは、5 W(誰が[who]、何を[what]、どこで[where]、いつ[when]、なぜ[why])と1 H(どのように[how])が重要です。逆ピラミッド型の構造では、情報はもっとも重要なものからもっとも重要でないものへと流れていかなければならないと、生徒にも教えています。フィリピン大学でフィリピンのジャーナリズムを研究しているダニーロ・アラオ(Danilo Arao)教授は、次のように述べています。「どちらのライティングも、データや分析結果を組み合わせる巨大なジグソーパズルのようなもの。大きなピースは真ん中に、小さなピースはその周辺に置かなければならない」。
それでは、もっとも重要な情報ともっとも重要でない情報の「間」には何があるのでしょうか?それは、ストーリーを構成しているその他の重要情報です。誰かを取材するときは、私は通常、最長で1週間を費やします。この間に、対象となる人物の調査(職業など)、インタビューの書き起こし、記事の執筆と編集、記事の投稿を行います。報道機関は、特派員とフリーランサーに対して異なるガイドラインを用意しています。私は、フィリピンを拠点とする報道機関Inquirer.netの特派員です。記事を執筆する前に、編集チームにトピックを提案するのですが、承認されることを前提に、あらかじめ記事を用意していることが多いです。タイ最大の英字新聞、Bangkok Postの別刷り付録であるAsia Focusの場合は、編集者がトピックを用意します。また、Asia Timesのオピニオンライターとしては、プラットフォームに直接記事を投稿することができます(自分のユーザー名とパスワードを持っています)。記事を投稿した後は、ジャーナルに投稿した論文のステータスを追跡するように、その記事の状況を観察します。編集者は、ミスや補足説明の必要性などに関するフィードバックを、記事公開前に送ってくれます。
分析と考察
研究は、私の仕事の重要な部分を占めています。私は、ジャーナリストとしての数十年の経験から、質問する技術を学びました。ただ単に質問をすればいいというわけではないのです。フィリピン大学での指導教官だったサリオ・デル・ロサリオ(Sario del Rosario)博士は、「研究者やジャーナリストは、記録することを止め、抑圧から解放され、インタビューする側とされる側が平等の関係を共有できたとき、もっとも大事な答えを得られる」ということを、何度も言い聞かせてくれました。もちろん、私は研究とジャーナリズムの倫理に忠実です。取材や研究の対象となる人々は意欲的に協力してくれており、研究やインタビューがどこで使われるかを完全に把握しています。
学術界では、ジャーナリストであることは有利に働きます。執筆のアイデアが尽きないからです。私の場合、タイ人学生の英語に対する姿勢や、タイで英語を教える外国人教師の流入というテーマは、ニュースとして価値があるだけでなく、今後10年は研究のネタに困らないほどの素材となっています。
アカデミックライティングとジャーナリスティックライティングの共通点は、正確で魅力的な記事や論文を書くことに役立っています。しかし、いつもそうなのですが、私は学術とジャーナリズムを切り離すことができません。切り離そうとしても、取材相手が研究の「被験者」や「対象」になってしまい、愕然とします。私は主に定性的で記述的な研究を行うため、「被験者(subjects)」ではなく「participant(参加者)」という言葉を使うよう心掛けています。また、長年の経験を通して、研究の「割合」や「平均」や「偏差」に、人間味を持たせることが重要であることに気付きました。「数字」に「声」を持たせるようなこの考え方は、多くの研究者とは異なるものだと思います。通常、学術研究にそのような考え方はありません。研究者にとって、統計結果はあらゆる研究を行う際の土台となるものだからです。
まとめ
2009年に大学院に通っていた頃、フィリピン人女性の間に内在するフェミニズムに関する学位論文に取り組んでいたのですが、当時は先行研究や補助資料がほとんどありませんでした。このことをロサリオ博士に相談すると、博士は私を睨みつけ、「文献がない?それなら書けばいい!」と言いました。だから私は、今もジャーナリストなのでしょう。
でも、ちょっと待ってください!私が書いた新聞記事は、私が書いた論文よりも、論文や書籍で引用されています!
最後に、ダニーロ・アラオ教授の言葉でこの記事を締めくくりたいと思います:「研究者は、最小限のシンプルな言葉で考えを伝えるジャーナリストから学べることがある。ジャーナリストは、最速のベストな方法で研究を行う研究者から学べることがある」。
両方の「いいとこ取り」ができる私は、幸せ者だと思います!
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