STAP細胞の余波:ジャーナルは著者にローデータをシェアさせるべきか?

STAP細胞の余波:ジャーナルは著者にローデータをシェアさせるべきか?

Nulis in verba (訳注:権威に頼らず、実験などの証拠にもとづいて事実を確定すること)とは、ラテン語で「人の言葉を信じるな」という意味で、紀元前20年から14年の間にローマの詩人ホラティウスが初めて使ったといわれています。何世紀もたった今、STAP論文で使われた方法に対し広まった懸念を背景に、科学者のコミュニティはこの言葉の意味に打ちのめされています。

前回の記事で書いたように、理研のSTAP論文の著者数名が、STAP幹細胞を再生する「根本的な技術テクニック」を詳細に示した実験プロトコル を提示しました。ここに挙げられた実験プロトコルは、ネイチャー誌で掲載されたもとの論文の「方法」 よりもはるかに詳しく書かれています。すぐれた幹細胞学者でブログもやっているポール・クノップフラー(Paul Knoepfler)が述べているように、この文書の要点は STAP細胞の再生プロセスが、当初考えられていたほど簡単ではないということです。 細胞を分離させ処置するために、従わなければならない特別な条件があるのです。

この実験プロトコルの文書は、3月5日に発表されましたが、それはSTAP論文の掲載から約5週間後のことでした。新たに発表された情報をもとに、独立した実験室が論文の結果を再現できるかもしれないし、できないかもしれません。どんな結果になったとしても、STAPのケースは、科学論文を発表することに関し非常に根本的な問題を 提起しているのです。つまり、研究者は、研究結果を支持するデータをすべて、同業者が手に入れることができるようにすべきか、というよりむしろジャーナルが著者に、ローデータをオンラインでシェアするようにさせるべきかという問題です。

これは決して新しい問題ではなく、長い間、アクセス可能な出版事業に関する議論の一部でした。しかし、STAPのケースは突然かつはっきりとこの問題に注意を向けさせ、それに目を向けるよいきっかけになりました。

昨年の12月、PLOSは「 科学の進歩をもっとも促進できるよう、基礎的データはそれを使う研究者が、法的にも倫理的にも自由に使えるようにすべきである」と発表しました。 この発表の重要性は、PLOSからその後2度の更新 がされたことから明らかです。その中で、「相次ぐ関心が寄せられたこと」や「オープンデータに関する議論と、科学出版におけるオープンデータの立場に関する議論の噴出」を認めています。もう一つ、データシェアの支持者であるBMJは、ローデータをシェアするためBMJ Openへの投稿を論文著者に勧めています。Springer Open

も同様です。アメリカ国立衛生研究所、イギリスMRC、Wellcome Trustのような国際的な一流の研究助成機関はこの問題に関し、それぞれの立場を示していますが、ここでも機関からの指示は共通して、さらなるデータ・シェアリングをしようという方向に向けられています。

長い間、ロジスティックかつ技術的な制約がデータ提供を控えることにつながっていました。しかし、情報技術の進歩により、データベースが増大し、大きく多様なデータセットを持つことができるようになりました。研究者はこうした発展を歓迎しました。大学は、ネイチャーで特集されていたロチェスター大学 の場合のように、リポジトリをつくるための大規模な課題に着手しました。けれども、実際は、オープンで役に立つデータからなる大きな貯蔵所になったものはありません。なぜでしょうか?

研究者は非常に忙しいので、自分のデータを利用可能にする時間がないのです。 the Scholarly Kitchenで執筆しているデヴィット・クロッティが言うには、研究者は、手元にある時間をもっとも重要なリソースだと考えているということです。アクセスがよいとか目で見てわかりやすいという認知されたメリット以上に、時間に価値を置いているのです。

すべての研究分野がそうだというわけではありません。 分野Aではデータ・シェアリングの慣習が認められているものも、分野Bでは歓迎されない義務と思われているかもしれません。 健康科学の分野に比べると、遺伝学やバイオインフォマティクスのような分野はデータ・シェアリングに支持的です。

研究時間が余分にとられることと 研究費が厳しいことの間に密接な関係はありません。研究費のすべてがデータ・シェアリングのコストを計算に入れているわけではなく、研究者はデータ提供にリソースを費やすよりも、追加の実験に投資するほうがずっと良いと思っています。

時間、お金、分野の慣習だけが問題だというわけではありません。もしローデータのシェアリングがすべての研究分野で全般にわたって強要されたとしたら、どうなるか想像してみてください。臨床研究者は参加者についての秘密情報を公にしなければならなくなり、今度は同意を得るのが悩みの種になるかもしれません。

ローデータが求められている限り、ローデータをシェアすることは、いつか何らかの科学からの要請に対し対処できるように膨大な量のデータを公開してシェアするより、はるかによいことだ と考える人もいます。現在の状況では、研究知見を立証するために追加情報が必要とされた場合に、編集者や審査者がさらなるデータを著者に要請するのは珍しいことではありません。カール・セーガンの有名な言葉に、「たぐいまれな主張をするには、たぐいまれな証拠が必要だ」というものがあります。研究による発見の影響が大きければ大きいほど、それを裏づけるデータがたくさん必要になるのです。

それでは、これらのことは、こんにちの科学の出版業界の状況について何を物語っているでしょうか?状況は混乱しているのでしょうか?データ・シェアリング肯定論は単なる流行で、時間とともに消えていってしまうのでしょうか? 入手可能な証拠にもとづき、どんなものであろうと確かな答えを探しだすのは難しいかもしれませんが、科学が常に自己修復する道を模索してきたということは歴史が証明しています。

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