「翻訳プロセスは、2言語間の中立的で透明な折衝ではありません」
キム・ヨンミン(Youngmin Kim)教授は、1991年に米ミズーリ大学コロンビア校で博士号を取得して以降、韓国の東国大学校英文学科で英文学と批判理論を教えています。現在は、東国大学校英文学科で教授および特別研究教授(Distinguished Research Professor)、杭州師範大学でジャック・マー(Jack Ma)教育基金の主任教授(Chair Professor、2019~2020年)を務めています。また、これまでに、Journal of English Language and Literature誌(韓国)編集長(2013~2020年)、米コーネル大学客員教授(1998~1999年)、札幌学院大学客員教授(2009)、米バージニア大学(シャーロッツビル)客員研究員(2007~2008年、2015~2016年)、韓国ウィリアム・バトラー・イェイツ協会会長(2000~2002年)、Jacques Lacan & Contemporary Psychoanalysis協会会長(2008~2010年)、韓国英語・英文学協会会長(2012~2013年)を歴任しています。その他、アイルランドを拠点に活動するIASIL(International Association of the Study of Irish Literatures)副会長(2009~2019年)、中国を拠点とするIAELC(International Association of Ethical Literary Criticism)副会長(2012~2020年)を務め、国際イェイツ協会やThe Journal of International Yeats Studies、CLCWeb、Foreign Literature Studiesをはじめとする数多くの国際団体および学会の委員や編集委員を務めてきました。
現在は、ウィリアム・バトラー・イェイツやジェラード・マンリ・ホプキンス、エズラ・パウンドなどの詩、アイルランド・英国・米国・カナダの近現代詩、ポスト構造主義、ポストモダニズム、トランスカルチュラリズム/トランスナショナリズム、文化翻訳論、世界文学、コンバージェント・デジタル・ヒューマニティーズ(Convergent Digital Humanities)を主に研究対象としています。
このインタビューでは、文学のテキストや概念を形作る文化的現象の理解、翻訳のプロセス、翻訳不可能性(untranslatability)という概念、翻訳プロセスにおける複雑な相互作用に文化的・言語的要因がどのように関与しているかなど、キム教授が情熱を注ぐ事柄について伺いました。
翻訳不可能性の壁を打破する研究に着手した経緯を教えてください。
2007~2008年にかけて、バージニア大学で1年間のサバティカルを過ごしていたのですが、その間に、当時理論として本格化していたトランスナショナリズムに興味を持ち、このテーマの学会やセミナーに出席するなどして、集中的に研究を始めました。
2009年には国立研究財団から2年間の助成を受け、「Transnationalism and Cultural Translation(トランスナショナリズムと文化的翻訳)」という研究プロジェクトに取り掛かりました。当時は、人種・民族・国・州・文化間の隔たりに関する議論が流行しており、人文科学分野における学術的な言説は、グローバル化とトランスナショナリズムという文脈の中で、繊細で複雑な概念を生み出しました。この新しく多様な動きの中で重要だったのは、民族離散的(ディアスポラ的、diasporic)な主題や、文化の境界領域に関する問題でした。
最近のポストモダン文化研究では、民族性や人種といった本質論的概念を越えて、「民族離散的意識(diasporic consciousness)」の動きを見ることが一般的になっていますが、これは、雑種性、異質性、アイデンティティの断片化、二重意識、ルーツやルート、マルチ・ロケーショナリティなどを示すために検討されるものです。ジェームス・クリフォード(James Clifford)氏が認めるように、この民族離散的意識は、衝突と対話における文化と歴史の産物であり、民族離散的主題は、特異な現代的、多国籍的(トランスナショナル)、異文化間的経験なのです。この民族離散的アイデンティティや雑種性の文脈において、トランスナショナリズムのネットワークは、民族離散(ディアスポラ、diaspora)、ポストコロニアリズム、ポストナショナリズムによって複雑に混成されている用語を紐解くためのヒントになるかもしれません。
このプロジェクトの目的は、民族離散的二重意識や、ポストコロニアリズム、ポストナショナリズムの相反する反概念から、ディアスポラ、コロニアリズム、ナショナリズムの概念の本質を探究することでした。そして、この新興の多国籍的で文化的なロジックの系譜を基にして、プロジェクトでは、21世紀における世界の文化的現象が、ハイブリッド文化のアイデンティティ、民族離散的ライフスタイル、文化的産物の国境を越えた商品化、フレキシブルな市民権とのつながりの中で、どのようにトランスナショナリズムの文化的ロジックに変化したかを示しました。
私の頭は、このトランスナショナリズムの文化的ロジックでいっぱいでした。そしてこれこそが、私たちが「文化的翻訳」の問題に直面したときに、複雑でありながらもオープンで、フレキシブルで、ダイナミックで、システマティックな文化と言語の隙間における、翻訳不可能性の壁を打破する解決策を見つけるヒントを与えてくれたのです。
現在進行中のプロジェクト、「Trans Media, World Literature, and the Digital Humanities(トランスメディア、世界文学、デジタル・ヒューマニティーズ)」について詳しく教えて頂けますか?
ジャン=フランソワ・リオタールは、「崇高」を、人間の理性におけるアポリア(解決のつかない懸念)という観点から定義しています。アポリアは、我々の概念的な力の境界を表し、ポストモダン的崇高の多様性を表しています。これは、フレドリック・ジェイムソン(Frederic Jameson)氏の「技術的崇高」にも表れているものです。リオタールの著作『The Postmodern Condition(ポストモダンの条件)』では、崇高の美学が概念化されており、それは技術の経済的実行可能性に対する自身の論評にも反映されています。対照的に、デジタルアートの継ぎはぎを利用することによって、リオタールが芸術的崇高への畏怖やその寛容さを理論化したものを有効化しています。『The Inhuman(非人間的なもの)』では、技術や「poesis of techne(技術の生成)」においてはまだ明確にされていないものの、これは彼が呼ぶところの「energetic Differend(精力的な抗争)」に対応しています。
これに関連して、教育省および韓国研究財団による助成を受けている私のGRN(Global Research Network)プロジェクト、「The Aesthetics of Trans Media, World Literature, and the Digital Humanities: Methodological Representations of Postmodern Sublime(トランスメディア、世界文学、デジタル・ヒューマニティーズの美学:ポストモダン的崇高の方法論的表現)」(2017~2020年)では、トランスメディア、世界文学、デジタル・ヒューマニティーズという観点から、ポストモダン的崇高の理論的土台のさらなる具体化を模索しています。研究の目的は、トーマス・ワイスク(Thomas Weiske)氏による「数学的崇高」と「動的崇高」におけるカントの美学と、リオタールの崇高の概念の再評価を具体化することです。
ポストモダン的崇高は、「デジタル・ヒューマニティーズおよび談話」や、さまざまなプラットフォーム間のメディア(動画、映画、インターネット、インスタレーション、フォトグラフィー、3Dおよびネットワーク・テクノロジー)の急速な発展と、「世界文学」の明確化との間にある類似性や緊張と密接に関係しています。私のプロジェクトでは、急速に進化する多国籍的文化やデジタル文化の文脈の中で、「国家」を理解し認めるための方法を模索しています。また、インターネット社会の穴だらけの境界を利用してアート・文学・メディアの関係性に対する私たちの感覚を見直すことによって、どうすれば韓国などのアジアにおける先端技術の発展が人文的言説における「西洋」の有意性を覆す手段となり得るかを研究しています。CCA(Cornell Council for the Arts)のディレクターで英文学と比較文学の教授を務めているティモシー・マレイ(Timothy Murray)氏との国際共同研究「トランスメディア、世界文学、デジタル・ヒューマニティーズ」によって、21世紀の情報・メディア・文学の文化という文脈における人文科学教育と研究の中で、倫理的イノベーションに関する現在進行中の国際的議論は、さらに発展するでしょう。
国際的な高等教育機関は、文学、メディア、デジタル技術の間の新たなインターフェースの生産性に着目しながら、「人文科学」の美的価値と将来について議論しています。ドキュメンタリービデオやデジタルアーカイブ、ストリーム配信による講義などをはじめとする人文科学におけるアーカイブのデジタル方式化や、アクセスの拡大という認識可能なポストモダン的崇高論を踏まえ、私のプロジェクトでは次のようなことを明確化・視覚化することを目的としています:1)「世界文学」が、英訳を通して得られた膨大な量の文学テキストの言語資料の利用可能性を促進していること、2)デジタル文化の発展が、従来の「国文学・民族文化」の境界を侵食し、学生や研究者の多国籍な議論や対象へのアクセスを容易にしていること、3)「世界文学」のムーブメントは、デジタル・ヒューマニティーズの急速な発展と同調するように発展してきたこと。反対に、同様の発展は、「トランス」メディアや人文科学の比較倫理的特異性を主張することによって、「世界」または「グローバル」の容易な翻訳可能性に取り組んできました。 ここでは、国境や国家の伝統という深い刻印が、「トランス」の構造を強く特徴付けており、それによってポストモダン的・技術的崇高性が露わになっています。
翻訳によって、ローカル文化の実態が映し出された翻訳作品の具体例があれば教えて頂けますか?
米国における韓国系米国人の作品や、アイルランド文学や中国文学の翻訳版が挙げられるでしょう。これらの地域文学は、文化的翻訳を具現化していると言えます。なぜなら、それぞれのローカル文化がすでに文化的境界に位置しており、さらなる言語的・文化的解釈のための接点を提供しているからです。
多国籍/翻訳文学の接触領域や境界領域では、「floating signifiers(浮遊する記号)」が持つさまざまな意味が遮断されています。それらは、私たちが打破(transgress)・転生(transmigrate)・移送(transport)・翻訳(translate)していかなければならないものです。その存在によって何かが開始されるような多国籍的な境界の橋渡し役の例は、豊富にあります。「彼方」の隙間を象徴する「橋」は、差異やアイデンティティにおける民族性、過去と現在の一時性、内側と外側の空間性、包含と排除の言語性などの複雑さを生み出します。トランスナショナリズムという構造的な橋を一度身に付ければ、「別の」空間を越えて、越境移動という意味での単一の国民国家の境界の「彼方」に行くことができ、倍増された多文化的経験が展開されるでしょう。たとえば、多国籍文学は、韓国系米国人のテレサ・ハッキョン・チャやチャンネ・リー、英国・カナダ系カリブ人のルイーズ・ベネット、アイルランドの詩人・脚本家ウィリアム・バトラー・イェイツ、米国生まれの詩人エズラ・パウンドらによる、民族的・言語的境界にある作品に代表されます。これらの作家は、文化の境界を渡り、文化的境界の現在を越えたり戻ったりしているのです。多国籍的な文脈における彼らの考え方は、差異やアイデンティティにおける民族性、過去と現在の一時性、内側と外側の精神性、包含と排除の疎外性といった複雑性を露わにしており、文化的翻訳としての座りの悪さを示しています。
文化的翻訳の具体例の1つとして、韓国系米国人作家であるチャンネ・リー(Chang-Rae Lee)氏の小説『Native Speaker』を挙げましょう。この作品では、翻訳者というメタファーを通じて、アジア系米国人スパイの多国籍なアイデンティティが強烈に示されています。翻訳者というメタファーは、言語的・文化的境界の漠然とした状態を示しており、媒介物の欠如や翻訳者兼スパイの背信行為が、国家という枠組みの外にあるアジア系米国人のアイデンティティ形成の可能性を切り開いています。この小説の動機となっているテーマの1つが、本質的な言語学です。主人公のヘンリーは、2か国(韓国と米国)の文化と言語の狭間に囚われ、翻訳者に似た境界的な位置にあります。翻訳が2言語間の中立的で透明な折衝であるという一般的な見方を揺るがすことによって、翻訳者としてヘンリーの立ち位置を見ると、アジア系米国人としての新たな多国籍的アイデンティティが出現する可能性が見えるだけでなく、不実で不安定な言語や表現の本質が露わになってきます。
私の取り組みに関連が高いもう1つの例は、アイルランドの詩人・脚本家であるウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939年)です。日本の能楽とアイルランド演劇の素材が混ざり合った多文化的なその作品は、非常に興味深いものです。エズラ・パウンドとアーネスト・フェノロサによる能楽の翻訳に影響を受けたイェイツは、日本の能楽という形式を、自身の作品の将来像として思い描きました。そして、「仮面」と「霊」のポテンシャル論を研究することで得た世界文学に対する新たな視点によって、多文化/多国籍的な世界文学・演劇を構想したのです。
文化的翻訳の3つ目の例は、原文と英訳の間の関連性について研究していた、詩人で翻訳家のエズラ・パウンドです。パウンドは、中国語、日本語、エジプト語、ヒンディー語、古英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、プロヴァンス語の作品を英訳し、範広い翻訳を行いました。彼の著作『Guide to Kulchur』を見ると、その主な関心が文明の条件を知ることにあったことが分かります。パウンドは、人類史における「文明」を定義することに情熱を注ぎ、自分の認識を明確な言葉にするための適切な形式を探し求める過程で、漢字に関するフェノロサの随筆の中から、表意文字法を発見しました。その後、この漢字と詩の表意文字法が、彼の傑作となる『The Cantos』の構造原理の基礎となりました。漢詩から学んだ構造的意図を土台として、人間の可能性による文明の条件の探求は、自分自身に内在する力と対外的性質を解放することができるプロセスとして、『The Cantos』の中で一種の航海として戯曲化されました。この航海は、遠くから読まれ、近くで書かれることで、多文化的な領域となっています。膨大な量の文学的ビッグデータが存在するものの、それらの事例は、世界文学の膨大な文学的言語資料における断片でしかありません。とはいえ、「不思議の国のアリス」のような、翻訳が不可能でありながらも発見的/認知的/解釈学的な魔法の世界に分割するための、くさびが必要なのです。
映画は世界中で親しまれていますが、字幕は視覚体験に重要な影響を及ぼします。今日では、字幕の作成に人工知能(AI)搭載のソフトウェアが使われることも珍しくありません。この点について、ご意見をお聞かせください。また、AIは、ローカル言語の文化を理解するという翻訳者の責任を排除すると思われますか?
クラウス・シュワブ(Klaus Schwab)氏曰く、私たちは第4次産業革命と呼ばれる時代を生きています。私たちは、インターネット、ソーシャルメディア・ネットワーク、QRコード、そしてスマートフォン全盛の環境によって収集され保存される情報にアクセスできるようにする「より強大な」データベースのおかげで、「ビッグデータ」がいたるところに存在する時代を生きています。映画業界にとって、インターネットやYoutube、Netflix、VimeoなどのOTT(Over the Top:ケーブルテレビとは別に、ユーザーにテレビコンテンツを提供する)プラットフォームは、世界に映画を広めるための素晴らしいプラットフォームとなりました。「ビッグデータ」という言葉は、人間の領域のあらゆる分野を分析・研究するための、膨大な量の情報をイメージさせます。AIは、その構造化されたビッグデータを扱うためのものです。たとえばFacebookは、AIを翻訳のための主な手段として導入し、全体の文脈におけるフレーズとして訳しています。ユーザーインプットによってリアルタイムでアップデートされるニューラルネットワークを利用すれば、より正確な結果が得られるでしょう。しかし、とくに多層的な複雑性を持つローカルの言語文化において、微妙な感情表現や修辞的な意味合いを扱う際は、機械には人間の補助が必要です。人間は「トライ&エラー」という教育的原則によって翻訳を発展させ修正することができますが、機会はその原則を理解できないため、変更・再計算・適応を行うことができません。映画字幕のケースを例に挙げると、AIは翻訳者の補助がない限り同じ失敗を繰り返します。人間の翻訳者が欠かせないのには、そのような理由があるのです。さらに、翻訳者には、文化的/言語的境界における翻訳不可能性に遭遇した際に、学問的対応を適切に行う責任があります。
同様に、テキストによる文学とは対照的な視覚的ストーリーテリングについて、翻訳者はほかにどのような責任を負うとお考えですか?
近年、視覚的研究と人文科学分野におけるデジタル・ヒューマニティーズとトランスメディア・アートに関する実験が急速に注目を集めています。そして、インターメディア/ニューメディア/トランスメディアの境界の地形が変化していることを理解するために、テキスト文学の専門家と視覚的ストーリーテリングのデジタルメディアとの間で、国際的な対話が前進しているという現象があります。21世紀の翻訳者は、デジタル化されたプラットフォームで、視覚メディアや言語テキストの間の多角的メディアをまとめ、翻訳することによって、「デジタル・リアル」に向き合うという新しい役割に取り組まなければなりません。この現象は、イマヌエル・カントの言う「数学的崇高」と「動的崇高」や、ジャン=フランソワ・リオタールが概念化した「ポストモダン的崇高」、フレドリック・ジェイムソン(Frederic Jameson)氏の「技術的崇高」の文脈の中にあります。東洋および西洋、とりわけ欧州、北米、アジアにおいて問題となっているのは、さまざまなプラットフォーム間のメディア(動画、映画、インターネット、インスタレーション、フォトグラフィー、3Dおよびネットワーク・テクノロジー)や、芸術、音楽、文学、演劇、映画などの文学的表現と芸術的表現の融合物を含む「デジタル・ヒューマニティーズおよび談話」です。現代の収束の時代を生きる翻訳者たちは、急速に進化する多国籍文化やデジタル文化の文脈の中で、「国家」というものを評価・理解する方法を探らなければなりません。また、インターネット社会の穴だらけの境界を利用してアート・文学・メディアの関係性に対する私たちの感覚を見直すことによって、どうすれば韓国などのアジアにおける先端技術の発展が人文的言説における「西洋」の有意性を覆す手段となり得るかを知ろうとすることも必要でしょう。翻訳者は今こそ、21世紀の情報・メディア・文学の文化という文脈における人文科学教育・研究の中で、倫理的イノベーションに関する現在進行中の国際的議論について知るべきです。翻訳者は単に言語や文化を翻訳するのではなく、「新たなコンテンツフォーマット」というデジタルのブルーオーシャンにおいて、オープンアクセスが収束する領域の橋渡し役となる準備をしておく必要があるでしょう。
キム博士、ご意見をシェアして頂きありがとうございました!
補足:キム・ヨンミン教授の翻訳不可能性の現象と文化的翻訳に関する取り組みは、グラフィカル・プレスリリースとして公開されています(こちらからご覧頂けます)。
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