ロシア・ウクライナ紛争が両国の研究者に与える影響
ウクライナ東部で進行中の武力紛争は、停戦や解決の兆しが見えないまま、まもなく6か月目に入ります。ウクライナでは現在までに700万人が国内で避難し1、520万人以上が国外へ逃れました2。また、ロシア・ウクライナ両国の戦闘員と民間人の死者は何万人にも上ります3。両国では多くの研究者、学術関係者、知識労働者も影響を受けており、人的損失は今後何年にもわたって蓄積していくことが予想されます。
ロシアとウクライナによる科学への貢献
ソビエト連邦(ソ連)時代、ソ連の技術革新に不可欠な存在だったウクライナ4は、2014~2016年に国内総生産(GDP)が13%減少5した債務危機などの逆境にもかかわらず、核物理学6や材料工学などの分野で高い評価を維持し続け7、経済発展の再開に伴って研究発表も活発化していました8。
他方、ロシアは科学分野で顕著な功績があり、メンデレーエフ、ランダウ、ポポフなど、偉大な科学者を多く輩出しています。ロシア科学アカデミーは世界有数の研究機関で9、物理学だけでもこれまでに10人がノーベル賞を受賞しています10。ソ連後の時代は国内の経済問題に苦慮したロシアですが、物理科学を中心とする研究分野では順調な発展を遂げてきました11。
しかし、現在進行中の紛争は両国の研究にかつてない脅威を与えており、研究者たちは自らの将来に懸念を抱いています12,13。
共同研究の機会を失ったロシアの研究者
「特別軍事作戦」の開始以降、ロシアは同国からの撤退を決めた大手企業やNGOから非難を受けています12。また、8,000人を超えるロシア人研究者が、ウクライナでの軍事行動に反対の立場を表明する公開書簡に署名しています14。
ロシアの研究者は、NATO加盟国の英米独などをはじめとする海外の研究者との共同研究に大々的に取り組んでいました15。米ロは科学研究でライバル関係にあるとみなされがちですが、実際のところロシアにとって米国は欠かせない共同研究相手であり、2017~2019年だけで両国の共同研究者による14,476本の共著論文が執筆されています16。しかし今回、ホワイトハウスは米国政府の対応について次のように述べています。「…ロシア政府関連の研究機関およびその管理下にある個人との、科学技術分野における関係および共同研究を縮小する」17。米国では研究者に大きなリソースが与えられていることを考えると、この措置はロシアにおける研究の足かせになる可能性があります。
こうした共同研究は、研究そのものに不可欠であるだけでなく、冷戦後の全面的な緊張緩和の象徴でもありました。アポロとソユーズのランデブーが未来への希望となったように18、継続的なコラボレーションが進歩的精神の維持に貢献してきたのです。ロシアの研究者が共同研究という重要な場から締め出されていることで、ロシアの研究にマイナスの影響があるだけでなく、西側との関係の全般的な冷え込みにつながる恐れがあります17。
紛争がウクライナの研究に与える影響
2021年のユネスコ科学レポート5は、ウクライナにおける研究の問題に言及していますが、その問題は今回の紛争でさらなる影響を受けることが予想されます。クリミア併合、東部で続く紛争、前述の2014~2016年の景気後退を経て、ウクライナでは消費者物価が2倍を超え、軍事費が50%以上増加しました。また、科学技術予算は2018年に過去最低の水準まで落ち込みました。欧州委員会が研究とイノベーションに800億ユーロを拠出する資金調達プログラム「ホライズン2020」では、239組織が参加したウクライナを含む多くのEU非加盟国が助成を受けましたが、ウクライナの申請受理率は平均(13.9%)を下回りました(9.2%)。ウクライナはEUとの関係を深める道を模索してきましたが、欧州イノベーション・スコアボードでは、ほぼすべての指標で低調な結果となっています19。
しかし、ウクライナは適応への強い意志を示しています。政府は欧州委員会の勧告に沿い、教育科学省による新しい統治の下で、公的研究の透明性と評価を改善するための措置を採用しました。
ウクライナとロシアからの頭脳流出
紛争は、ウクライナの多くの研究者のキャリアを事実上停止させています。多くの人が立ち往生し、国内外で仕事の継続が難しくなっています20,21。中には支援を受けて継続している研究もあり、たとえばヴォルフガング・パウリ研究所のプログラム22は、ウクライナの研究者と博士課程在籍者にそれぞれ2,000ユーロと1,500ユーロを提供し、仕事を続けながら生活費を賄えるようにしています。また、人文科学アカデミー連盟ALLEAは、避難を余儀なくされた研究者のために50万ドル以上を拠出しました23。しかし、状況が不安定であることに変わりはありません。武力衝突が収束するまで、ウクライナでの研究は資金の喪失、人員の不足、研究施設の損傷によって身動きができない状態に置かれ、低下した生産性が回復するまでには年単位の時間がかかるでしょう17。
ウクライナの研究者に比べれば、ロシアの研究者が今回の紛争から直接受ける影響は少ないですが、政府との意見の不一致や将来への懸念から、一部の研究者や技術者は、自らの忠誠に疑問を抱いています24,25。ロシア政府はそのような状況を踏まえ、才能の流出を食い止めるとともに制裁を克服するための緊急措置を発表しました26。
こうした動向に目を付けた諸外国は、知識労働者の流出を利用しようとしています。英国のボリス・ジョンソン首相は、ウクライナ人研究者130人を英国に呼び寄せる1,000万ポンド規模のプロジェクトに加え、ロシア人研究者にロシアから退去して英国に来ることを公然と呼びかけました。「ロシアではもはや安心できないと感じているロシア人研究者の皆様[…]。寛容、自由、知の追求を大切にする英国で働きませんか?」27。
両国の研究の行方
ロシアとウクライナの紛争が研究に及ぼす長期的な影響は不透明です。両国が進歩を維持するためには、人材の流出を食い止め28、戦後の国際関係を正常化することが不可欠です。さもなければ、研究での優位性をさらに失いかねず、研究者は自らのキャリアについて厳しい決断を迫られることになるでしょう13,29。
参考資料
1. Ukraine: Millions of displaced traumatised and urgently need help, say experts. OHCHR https://www.ohchr.org/en/press-releases/2022/05/ukraine-millions-displaced-traumatised-and-urgently-need-help-say-experts.
2. Situation Ukraine Refugee Situation. https://data.unhcr.org/en/situations/ukraine/location?secret=unhcrrestricted.
3. Kottasová, I. et al. June 16, 2022 Russia-Ukraine news. CNN https://www.cnn.com/europe/live-news/russia-ukraine-war-news-06-16-22/index.html.
4. Read ‘An Assessment of the International Science and Technology Center: Redirecting Expertise in Weapons of Mass Destruction in the Former Soviet Union’ at NAP.edu. doi:10.17226/5466.
5. UNESCO. UNESCO Science Report 2021. Chapter 12: Countries in the Black Sea Basin. https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000377467/PDF/377467eng.pdf.multi.
6. Gohar, Y., Bolshinsky, I., Nekludov, I. & Karnaukhov, I. Ukraine experimental neutron source facility. https://www.osti.gov/biblio/1013983 (2008).
7. Home. https://mrc.org.ua/about-mrc.
8. Clarivate, G. H. D. at the I. for S. I. Ukraine: Innovation, technology and cutting-edge research. Clarivate https://clarivate.com/blog/ukraine-innovation-technology-and-cutting-edge-research/ (2022).
9. Academy of Sciences | Russian organization | Britannica. https://www.britannica.com/topic/Academy-of-Sciences-Russian-organization.
10. Nomination%20archive. NobelPrize.org https://www.nobelprize.org/nomination/archive/country-university.php?country=175 (2020).
11. Russia makes progress in science subject rankings. Times Higher Education (THE) https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/russia-makes-progress-science-subject-rankings (2019).
12. Russian Scientists Grapple with an Uncertain Future. The Scientist Magazine® https://www.the-scientist.com/news-opinion/russian-scientists-grapple-with-an-uncertain-future-69842.
13. Russia-West scientific collaboration a casualty of Ukraine war. France 24 https://www.france24.com/en/live-news/20220326-russia-west-scientific-collaboration-a-casualty-of-ukraine-war (2022).
14. Открытое письмо российских ученых и научных журналистов против войны с Украиной – Т-инвариант / T-invariant. https://t-invariant.org/2022/02/we-are-against-war/.
15. Plackett, B. The future of research collaborations involving Russia. Nature (2022) doi:10.1038/d41586-022-00761-9.
16. US to ‘wind down’ research collaboration with Russia. Science|Business https://sciencebusiness.net/news/us-wind-down-research-collaboration-russia.
17. US Restricts Science Collaborations with Russia. https://www.aip.org/fyi/2022/us-restricts-science-collaborations-russia.
18. Apollo-Soyuz Mission: When the Space Race Ended | Astronomy.com. https://astronomy.com/news/2020/07/apollo-soyuz-mission-when-the-space-race-ended.
19. European Innovation Scoreboard 2021. 76 https://ec.europa.eu/docsroom/documents/45940.
20. Ukrainian researchers flee trauma and terror of war. https://www.science.org/content/article/ukrainian-researchers-flee-trauma-and-terror-war.
21. Gaind, N. How three Ukrainian scientists are surviving Russia’s brutal war. Nature 605, 414–416 (2022).
22. Aid keeps researchers afloat in Ukraine. https://www.science.org/content/article/aid-keeps-researchers-afloat-ukraine.
23. Fund for Ukrainian researchers puts up first $500,000 of support. Research Professional News https://www.researchprofessionalnews.com/rr-news-europe-politics-2022-5-fund-for-ukrainian-researchers-puts-up-first-500-000-of-support/ (2022).
24. Prince, T. ‘A Nail In The Coffin’: Tech Workers Are Fleeing Russia And The Impact Will Last For Years. Radio Free Europe/Radio Liberty (02:46:34Z).
25. Vorobyov, N. ‘Criminal adventure’: Ukraine war fuels Russia’s brain drain. https://www.aljazeera.com/news/2022/5/23/many-leave-russia-as-ukraine-war-drags-on.
26. Emergency benefits for the IT sector - Borenius. https://web.archive.org/web/20220310130818/https://www.borenius.ru/en/2022/03/emergency-benefits-for-the-it-sector/ (2022).
27. Walker, P. Johnson issues open invitation to Russian scientists ‘dismayed by Putin’s violence’. The Guardian (2022).
28. Russian Academy of Sciences president admits major outflow of academics from Russia. https://interfax.com/newsroom/top-stories/77612/.
29. Holdren, J., Fedoroff, N., Lane, N., Talbot, N. & Spribille, T. Let’s not abandon Russian scientists. Science 376, 256–257 (2022).
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