査読と上手く付き合うきっかけをくれたモンスターレビュアー
これまでの人生でもっとも感情的になった査読プロセスについて尋ねられたら、私はきっと、ある3人の査読者のことを思い浮かべます。私は今でもその人たちのことを、「モンスター陪審員」と呼んでいます。モンスター陪審員たちと出会う数か月前、私は優秀な仲間たちと素晴らしい論文を作成していました。その論文は学際的な内容で、豊富なデータと複雑な分析は、分野に十分に貢献し得るものでした。「投稿」ボタンを押したときの誇らしい気持ちは、今でも覚えています。
5か月後、メールの通知音がしました。ピーン!レビュー結果が届いたのです。
若き学者として、ジャーナルからの判定結果に動揺を隠すことができませんでした。震える手でパソコンを操作しながら判定通知に目を通します。大幅修正!リジェクトではない。やった!しかし、コメントを読み進めるうちに、最初に感じた喜びは落胆へと変わっていきました。
陪審員1号は、論文の主要なポイントを完全に誤解していました。でも、理由はすぐに分かりました。私たちは、議論をまとまった形で組み立てられていなかったのです。陪審員1号のせいではありませんでした。一方、陪審員2号は、私たちのアプローチに不満を表明していました。そして、理論的枠組みが不十分、データ収集手順に欠陥がある、分析が科学的厳密さを欠いている、と指摘していました。極めつけに陪審員3号は、まさにそのアプローチの本質的欠陥が多すぎると指摘しています。私は思わずメールを閉じ、コンピュータをシャットダウンしました。
モンスター陪審員のコメントを読んで最悪に感じたのは、査読コメントに対応するためにさまざまな感情と向き合わなければならないことではありませんでした。これらのコメントが、研究者としての自分の核心部分に触れているように思われたのです。教育研究者としての自分のアイデンティティの欠陥が指摘されていると感じられたのです。査読者たちは、私の論文をリジェクトしたのではなく、特定の研究者としての私個人をリジェクトしたのだ!と感じたのです。これは私にとって、大きな打撃でした。
それからの1か月間、私は査読コメントに取り組むことを全力で避けました。友人と遊び、新たな執筆を始め、地球の反対側まで旅をし、学問の世界を離れることも考えました。本当に居心地の悪い状況に直面したときにすることを、全部やりました。
でも、締め切りが近づき、とうとう腰を据えて修正に取り組まざるを得ませんでした。どうやって切り抜けたのでしょうか。ある日、私は気を確かにしてコンピュータを開き、ロボットのように作業を始めました。コメントを細分化し、技術的な作業を次々にこなしました。このときのアプローチと精神状態は、ジョギングをしているときと同じです。何も考えず、ひたすら走り続け、レディー・ガガの曲をバックに流し続けます。ドント・ストップ!
このプロセスで得た収穫は、フィードバックを受け取ってそれに基づいて行動するには、自分の感情に向き合うだけでなく、「研究者としての自分のアイデンティティ」に向き合う必要があるということでした。自分のアイデンティティはいかなるコメントからも影響を及ぼされない、と考えるのは大変難しいことでしたが、査読者のコメントは自分の「研究」に関わるものである、ということを忘れないようにしました。このアプローチはその後、非常に役立っています。最近は、査読コメントに対応するときは、アイデンティティという概念について積極的に考えるようにしています。
コメントを見る