衆議院議員選挙でも争点となり、国会などでも大きな議論となっているのが「年収103万円の壁」。現在は、配偶者控除を適用されようとすると、配偶者の年収を103万円以下に収める必要がありますが、このラインを引き上げようというものです。連載「研究者の思考さくご」第13回は、国立情報学研究所の宇野毅明(うの・たけあき)先生が、情報学研究者ならでの様々な視点から「年収103万円の壁」を見たときにどのような思考や議論上の観点や論点、考える方向性がありうるかを“思考さくご”しました。
筆者は、この連載では通常、社会問題、時事ネタには、あまり触れないようにしています。世には、今現在の社会問題、政策の話、外国の話、犯罪やスキャンダルなど、時事ネタに対する見解を述べているものが多くありますが、このスタイル、実は物書きの立場からすると、とてもやりやすく、ありがたいのです。時事ネタは自分が準備しなくても、向こうから書くべきネタがやってきますし、それは自分の発想の外側にあるものも多いので、発想を広げたり、記事のバリエーションを広げたりするのも簡単だからです。しかも、他の人々がいろいろ意見を言ったり、時系列で何か変化が起きていたりしているので、考えやすいし意見も言いやすいという面もあります。書き手である自分はその問題や事件を俯瞰するなり、自分の立場から話せばいいわけですから、何もない状態からネタを探して、一から分析・考察をして問い立てを行う必要がないので楽なのです。また、がんばって問題に価値付けしなくても、すでに世間で大きく騒がれていて、人々の関心も高いので、価値も簡単に認識してもらえて、読まれやすくもなると思います。
とはいえ、時事ネタを取り上げるスタイルでものを書くと、えてして「読書感想文」のようなものに陥りがちです。つまり「筆者がどう思ったかだけを伝える」とか「筆者の価値観をもとに何かをジャッジする」とか、そういう態度の文章になってしまいやすいのです。下手をすると思想や価値観の押しつけになってしまい、それはいけないと思います。時事ネタスタイルは、どうしても今起こっている問題の着眼点、世論に寄り添って論を展開することになるのですが、その論点なり視点なりトピックなりが、自分が普段考え、得意としている思考スタイルでいい考えが出せる種類のものとは限りません。普段から考えてきていることではない分だけ、自分の感想や思想を単にあてて論を作ることになってしまうため、なんとなく物足りない、薄い感じの記事になりがちです。ならば記事の厚みを増すために、その問題や事件のいろいろな点に善悪を述べて、スパイス、メリハリをつけるという手法もありますし、それはそれで、社会に対する一つの取り組みになるのでしょうが、筆者はそれが得意ではないし、また好きでもありません。せっかく研究者の立場からものを書いているのですから、こういう善悪ではなく、研究者的な目線で話をしたいと思っています。
上記のような考えは筆者の中にありつつ、研究者的な視点から日々起こる時事ネタの問題をしっかり思考しておく必要性は感じているので、今回、少しがんばって今ホットな時事ネタ「年収103万円の壁」であえて文章を書いてみようと思います。ただし、自身が考えていることにトピックを寄せて話すのではなく、「年収103万円の壁」をめぐる様々な視点に注目してみたいと思います。一般的な解説のように「問題を紹介して対立軸や社会の様相を捉える」のではなく、また「何が良い/悪い」というのではなく、いろいろな視点からもっと深く考えるとしたらどんな疑問や気づきが浮かんでくるのかを試していきますので、ぜひ読者の皆さんも一緒に“思考さくご”していただければと思います。
視点1:「壁をなくす」という言葉をめぐる思考
まずは、言葉の問題と捉えられがちですが、「年収103万円の壁をなくそう」という意見は実は的を射ていないかもしれません。今議論されているのは、103万を150万とか170万とかに上げる話で、これは壁が移動しているだけです。壁をなくすのであれば、極論としては「全員課税か全員非課税か」ですが、これは両方とも現実的ではありません。一方で、「壁が壁ではない」と感じるようにすることはできます。年収が103万円以上になると所得税が発生し扶養者控除がなくなりますが、それがゆるやかになっていて、壁のように「これ以上働いたら大きく損をする」という状況をなくせばいいのです。「年収103万円を超えるとちょっと時給が低くなる」くらいの感じに収めれば、壁は坂道になり、壁ではなくなります。
「こんな面倒なことするより、壁を動かせばいいじゃないか」と思われるかもしれませんが、壁の移動は本質的な解決になっていません。たとえば壁を200万に移動すると、今度は200万のところで働き控えが起こります。今年収が210万円とか220万円とかの人は、働かなくなるわけですね。今まで働き控えで困っていた人は、確かに助かりますが、今度は新たな職場で、働き控え問題を発生させるだけなのです。
壁の移動は、税収の面からも良くないことがあるかと思います。今は、働き控えの人のことしか考えていないので、「単に働く時間が増えるだけだから税収が減ることがない」と思われていますが、実際には今まで課税されていた人がされなくなりますし、新たに発生する働き控えの人の分の税収は確実に減ります。減った税収の分、税の支出を減らすと、今度は新たに他の分野、教育、福祉、行政サービスなどで問題が発生しますので、やはりこれもババ抜きのジョーカーを他の人に渡しているようなものかと思います。
視点2:夫婦の働き方/役割分担をめぐる思考
配偶者控除が適用される年収について議論されるのは、夫婦の働き方は「片方がたくさん働き、片方がちょっとだけ働くスタイルがいい」と多くの人が思っているのが原因かもしれません。
業務でも研究でもそうですが、やることが多様、いろいろな種類がある場合は、だいたい担当を分けます。そのほうが効率がいいからです。ただし、完全に分けるのは良くないので、お互い少しずつ関わったり、情報交換をしたりします。だいたいの職場はこのように設計されているでしょう。
家庭も「多様な業務をこなす職場」と考えれば、分担するのが効率が良いはずです。夫婦両方が共に同じ程度働き、同じ程度家事育児をするのは、ある種の理想なのだとは思うのですが、その理想のために効率性を犠牲にできるほどのゆとりがない人たちが今の日本では大多数ではないでしょうか(現在、家事育児のほうを女性が担うパターンが多いのですが、これがいいかどうか、どっちが優遇されているのか、蔑視とか差別にあたるかどうかは、また異なる問題ですので、場所を改めて解説します)。そもそも、夫婦二人が異なる働き方をしている方が、何か家庭内で問題が発生したとき(子供が風邪を引いたなど)に、いきなり詰んでしまうことが少なくなります。お互いに補完し合えるような体制を作る方が、組織としては理想的です(この組織に祖父母を入れるというのもあるので、必ず二人で補完する必要はありません)。
視点3:「女性の自立のため」という意見をめぐる思考
男女の問題の視点に着目すると、「壁をなくすのは女性の自立のため」という論調もあります。これは、正直あまりよろしくない言い方かと思います。これの意味するところは「年収103万円以内の結婚している女性は自立していない」と言っているようなものだからです。「あなたは自立していません」と言われたら、普通は傷ついたり怒ったりするでしょう。また、障がいをお持ちの方々、ご老人、困窮している方々も、同様に収入が少なく、社会から支援してもらうわけですが、その方々をも「自立していない」と評することになるかと思います。一方で、子役のように収入はだいぶあっても子供であれば「自立していない」と言われることが多いでしょうし、バイトして大学に通う大学生も自立していないとみられることが多いでしょう。つまり、社会で言われるところの「自立」とは、経済や生活よりも精神的な意味合いが大きいと思われます。昭和のお父さんは「仕事はできるが生活面はからきしダメで自立できない」とも言われていたようにも思いますので、この面からも自立を収入のみの意味合いに限定するのは乱暴なのではないでしょうか。
善意で文章を読み取って、「自立とは経済的自立である」と考えても、女性が働いたお金も男性が働いたお金も、離婚のときには夫婦の共有財産と見なされますので、女性の収入が女性の経済的自立に資するかと言えば、半分くらいです。ただ、離婚するまでは収入を得た人のものであるので、それまでは意見がいいにくい、というのはあると思います。極端に権力が偏らないようにする、という視点であれば、大事だし、同様に二人が家事と教育にも携わると、家庭のどの面においても夫婦両方がある程度のパワーを持ちますので、これは喜ばしいことかもしれません。ただ、何に関しても話し合いが必要になることを、めんどくさいと歓迎しないという感情もあると思いますので、これも絶対的な正義ではないですね。
また、最低賃金が1000円くらいになりましたので、普通に毎日働いたら、最低でも年収250万くらいになり、なんとか一人で経済的に自立できる状態にはなるのです。「こんな年収じゃ自立したことにならない、正社員クラスの収入を離婚前から持っていないと」という視点に立つと、103万円の壁が170万くらいになることには全く意味がないので、これまた経済的な自立とは関係なくなります。「離婚したときに子供がいると大変だから」という意見もありますが、これは養育費の問題かと思います。日本では、子供の養育は「子供の環境を良くする」という軸を一番に考えます。ですので、たとえ女性が有責配偶者であっても、子供が小さいときには女性が親権者となるケースが多々あります。この原則にのっとれば、子供の養育にお金がたくさん必要なのであれば、たとえ有責配偶者であっても、稼ぎの多い人が養育すべきという判断になるかもしれません。「相手が有責であるが経済的な要因で離婚できない人がいて問題だ」という点は、「相手が有責であるが親権がとれないので離婚できない」という人もいるので、一概にどちらが有利かはわかりませんし、経済も親権も二人が同じくらい有利になる必要があるかどうかもわかりません。
視点4:金銭的に厳しい学生をめぐる思考
それともう一つ、扶養されている人の中には、学生がいます。学生は、構造として、パートナーとはまったく異なります。勉学をすることがある種の業務なわけです。親から生活と学費について十分なサポートがあればそれほど働かなくていいのですが、親から十分なサポートが得られない場合は、親がお金に困っていれば困っているほど、学生が多く働かなくてはいけなくなり、そして課税されるという状態が生まれます。貧困度合が高い人に課税するという、そもそも社会が目指していることとは逆の事態が発生してしまうのです。「これは良くない、子供かつ学生は特別扱いするべきだ」という論は立つと思います。ただしこれは、「大学は国民の多くが行くべき教育機関であり、学生は社会からサポートされるべき」と考える場合であり、「大学は一部の人だけが行くものであって、決して標準的なものではない」という立場に立つのであれば、学生に対する税の優遇はするべきではないということになるのではないでしょうか。とはいえ、今の日本の現状、約70%の人が大学に行き、専門学校も合わせると90%を超え、そのために多大な努力とコストを払っている状況で、大学・専門学校は一部の人だけが行く必須ではないものと考えるのは無理があるかとは思います。
視点5:年収と世帯収入の分布をめぐる思考
最後にですが、少しデータサイエンス的な立場から。今回の話、データを出して話している人がほとんどいません。日本で年収103万円以下で働いている人がどれくらいいるのか、そのうち扶養に入っている人はどれくらいの割合か、103万円前後の収入で働き控えしていそうな人はどれくらいいるのか、逆に働き控えないで税金と社会保障を払っている人はどれくらいいるのか。こういう数字は統計的な性質から、だいたいなだらかに変化するはずなので、収入が103万円直前の人が100万人、103万円直後の人が50万人いたとすると、「たぶん25万人くらいは働き控えだろう」と思われるわけです。何人が働く時間を増やし、どれくらい新たな働き控えが発生し、税収はどう変化するのかわからなければ、多くの人はどの意見に賛同すべきかわからないかと思います。現状では「税収の減少額の試算」などが出ていますが、どうやって出したか不明なので、完全にブラックボックスになってしまっています。
実際の所、自分の暮らしがどれくらい経済的に豊かであるかどうかは、自分の年収ではなく、世帯収入に寄ると思います。その意味で、単に年収が103万以下の人を貧困層だから、というのは良くないでしょう。夫婦の片方が年収103万以下で生活できる、ということは、実はもう片方が高い年収を持っていて、裕福である証なのかもしれないからです。税制優遇をするならまず貧困層から。これは絶対でしょう。その意味で、年収103万以下の人の世帯収入の分布を見ないと、本当に貧困層へのアプローチになっているかどうかわからないのです。
上記の視点を踏まえて情報学的にまとめると・・・
これまでの視点をふまえ、最後の最後に情報学やオペレーションズ・リサーチ的な考え方でこの問題を捉えると、「税収があまり減少せず、税が増える人が発生せず、収入の少ない人が多く課税されることがないように、かつなるべく壁がなくなる(課税額が連続的に、なるべくなだらかに変化する)ような課税の仕方を考えてください」となります。課税は収入によって決まるので、「年収が●●万円なら税金はいくら」という表を、政府のために細かく作ってあげる(課税の関数「f(収入) = 課税額」をデザインする)問題になります。これを、年収の分布やら何やらのデータと最適化を使って解く(データへのフィッティングといいます)と、きっと素晴らしい関数が出てくると思うのですが、この関数、おそらく超複雑になって直感的にわからなくなりますし、現在のデータにあてているので、将来にわたって良いものであり続けるという保証はまったくありません。しかし、考え方を変えれば「国民誰もが、収入から課税額を計算できるアプリなりWebサイトがあれば十分」と思えるかもしれませんし、「毎年政府が国民に対する課税額を去年の年収データに合わせて最適化して決める」という方法もありえるかもしれません。毎年の変動が大きいと大変ですので、課税額の変化はある程度制限する必要があるとは思いますが、年収の分布はあまり短期間で大きく変りませんので、それほど問題にならないかもしれません。毎年、ある種のロジックに基づく最適な課税がされるのは、時代の変化による明確な不公平が発生しにくくなるかもしれませんので、なんとなく良さそうに思うのですが、いかがでしょうか。
“年収103万円の壁”を思考さくごしてみて
人間は、どうしても物事を複雑に考えるのはいやなもので、ついつい単純化してすっきりしたくなります。103万の壁も「貧困層の救済」「手取りを増やす」のように一つの軸に問題を落とし込んで単純化してしまえば、善悪もはっきりするし、実に考えやすくなります。気持ちも高ぶるというものでしょう。でも、実際には夫婦の役割分担の話など、異なる側面から問題を見ている人がいます。単純化する、ということは、数ある他の多くの要因を捨てる、ということです。捨てられた要因にこだわる人にとってはたまったものではないでしょう。どの軸を大事にするか、対立が起きます。
一方で、せっかく単純化して考えても、貧困層以外の人の方が大きな恩恵を受けるかもしれないし、今とは異なるところに手取りが減らされているように感じる人が出てくるかもしれません。激しい対立を生み、相手を制圧してまで変革を行ったとしても、実は金持ちばかりが得をする、貧困層にとってそれほどいいものでないかもしれないのです。どうすればいいか、と言えば、上記の大学生の控除のように、社会的な理念に明らかに反してしまっている部分だけに手を付けるか、みんなが働く社会のほうがいいよね、という方向にちょっとずつ、例えば103万の壁を毎年3万ずつ動かすとか、のようにして、緩やかに変えていくのかなと思います。対立の激しくない社会、というのも一つの理想的なものであるので、この軸も考慮して考えたいものです。