国立情報学研究所の宇野毅明(うの・たけあき)先生は、情報学、アルゴリズム理論やデータマイニングの研究をしています。マイニングアルゴリズムの基礎理論から婚活や金融の共同研究まで幅広くやっているのですが、最近は「いつまでも昔から続く価値観の研究課題を続けてはいけない」と、人文学や社会科学、数学、自然科学の人と一緒に、情報学が未来に向かって取り組むべき新しい研究課題をデザインする活動をしています。社会でおきるいろいろな現象や、人と技術の関わり、そのはざまで起きる現象を捉えて分析考察し、今まではなかった視点や考え方を見つけ出しています。
「研究者の思考さくご」は、宇野先生のそんな議論のこぼれ話をまとめた連載です。議論と研究で培った「ものを視て考える方法」を使って視点や着目点をちょっと変えると、気にもしなかったこと、当たり前に見えることも、別の面白い側面が現われます。第1回のトピックは、最近、研究申請書で見る「バズワード」をどう捉えるか?というお話です。
最近、ニュースや新聞で、生成AIとかチャットGPTとか、そういう言葉をよく見ます。あるいは、ビジネスでも生活でも、これらの言葉がよく現れます。こういう言葉は、普通は流行語、あるいは新語と言われるのだと思います。が、生成AIなどは、バズワード(buzzword)とも呼ばれると思います。バズワードとは、ビジネスや政治などの分野である種爆発的に利用されるようになる言葉で、数年といったしばらくの間使われ続け、そしてあまり使われなくなっていくものです。その間、セールストークやビジネスプランに中心的価値観、概念として使われ、それに関する講演やセミナーが開かれ、ビジネス、の一部、はそこを中心に回っているように思えます。AI、ビッグデータ、Web2.0などがその例です。一般の流行言葉とは異なり、ビジネスモデル、世界観、新技術などを表す言葉が多いです。そして、自分のビジネスをよく見せるとか、価値付けや格付けに使うとか、注目を引くなどの目的に多く使われているように見えます。
一度ある言葉が世間でバズワードになってしまうと、なんかちょっと流行り物のような、うさんくさいものに見えたりするのですよね。金儲けとか、自分の意見を通したいときとかに、誰もが便利に使っちゃうのかなあと心配にもなったりして。流行り言葉になってしまうと、それが何を意味しているのか、言葉が指すものの全体像が見えにくくなることも、バズワードの特徴だと思います。
実は、研究分野でも時折、バズワードのような言葉が登場します。最近の情報学の進展から発生した「なんとかインフォマティクス」などは良い例でしょう。また「サステナビリティ」や「ウェルビーイング」、「ソサイエティ5.0」といった言葉も、研究申請書などに頻出します。こういった研究バズワードは、新しい研究の流れを作りたい、分野を興したいときなどに使われがちに見えます。時には、研究をより新しくて意義のあるものに見せるために、ちょっと言い訳っぽく使われているときもあるかもしれませんけれど。
例えば、SNSを活用した人々の心を癒すシステムの研究している研究者がいるとします。研究提案書を書く時に、「これは人々の心の幸せを増やす研究です」、と昔から使われてきた言葉を使って表現すると、審査する人に「それは昔からやられていることだよね、特に新しさがないなぁ」と受け取られてしまうかもしれない。そこで、「個人のウェルビーイングを向上させる」と表現すると、従来のアプローチとは異なる新たな価値を持つように感じさせることができる。たぶん、新しい言葉を使いたいのはそういう背景もあるんだろうなあ、などと考えたりします。
さて、話を戻してバズワードですが。最近、筆者の周りでは「ナラティブ医療」「ナラティブ経済学」といった、「ナラティブなんとか」という言葉を多く聞くようになりました。ナラティブとは、語り、およびストーリーを包含するような概念を示す英語の言葉です。紙に書いてあるテキスト、文語体の文章に対して、人がしゃべったもの、あるいはその奥にあるその人なり民族なりの歴史やストーリーを表す感じのようです。文学、文化人類学など、人がしゃべったものを扱う分野ではしっかりと認知されているものなのですが、それらの分野の本流ではないようです。この「ナラティブ」を付けた言葉が、異なる分野から同時多発的に出てきているように見えていて、こういう風にほかの分野のものとくっつけて注目され出したのは最近のようです。ひょっとしたら、そのうちバズワードになるのかもしれない。貴重な、黎明期の観察ができているかもしれない、と思っています。
筆者の研究室には文学の研究者がいるので、この現象に関心を持って、ラボのみんなで「一体何が起きているんだろう?」と議論しています。文学界では、この動きがあまりよく見えないようなんですね。つまり、ど真ん中でナラティブを研究をしている文学の研究者が、この「ナラティブ」の流行に深く関わって推進してるのではないようなのです。そう考えると、バズワードは、バズワードが名指すものに取り組んだり、研究したりしている専門家から発生しているわけではないのかも、と思います。そういえばAIもバズワードで、今は「なんとかAI」という表現が流行っていますが、人工知能学会がキャンペーン打って今のAIブームがあるわけではないですし。AIという技術に触発され、これで新しいことをしたい、新しい道を作りたいと思った人たちがたくさんいて、バズワードになったのだろうなあと思います。
昔のバズワードを振り返ってみると、そのブームが生まれた背景には、それを言い始めた人たちの「今までと違う新しいことをしたい」という、熱い気持ちが大きくこもっていたように思います。ただ、新しいから新しい言葉を使うと、新しい言葉では言いたいことを理解してもらえないかもしれないので、バズワードによせることによって、みんなが知ってるすごいもの、大切なもの、という感じを持たせようとしているようにも見えます。また、新しいコンセプトを出したい、新しい方向性を作りたい、と思っているけど説明してもなかなか伝わらないときにも使われるように思います。新しさ、違いを、なるべく今まで使われていない新しい言葉で言いたいのかなあ、とか思います。
確かに、アカデミアでの「ナラティブなんとか」の流行を見ていても、その研究分野でこれまでに使われなかった言葉を取り入れて、新しい道を作りたい人が使うことが多いように思います。医療の場面で病気の症状や体の反応でなく、患者の言葉から医療を考えたい」ナラティブ医療」、経済活動に携わる人たちの語りから現況を知ろうとする「ナラティブ経済学」、あるいは「ナラティブ経営」。
これらの新しいコンセプトを見ていると、単なる言葉以上のこと、言葉から想像するものの外にある価値を含んでいるもの、そういうものがあるように思います。新しい考えや価値は説明しにくい、なので、バズワードを使い、そこに自分の気持ちを、ほんとうの言語化しにくい、説明しにくい、熱意のようなものを込める。今までとは違う、見過ごされてきたものがあるから、そこに向かって進んでいきたい、全力で取り組んでいきたい。そういう気持ちをこめるために使われているように思います。これはもう筆者の感覚でしかないのですが、バズワードを見て安っぽいなと思うことがある一方で、なんかすごいもの持ってそうだぞこの人、と思わせられることがある、面白いなと思います。
つまり、「特定の研究分野で何か新しい道を作りたい人が、まだ完全に言葉になっていないものも含め、自分のやりたいことを新しい大きな技術や流れを用いて言葉にしたもの」が、研究業界でのバズワードなのかもしれないと思います。そう考えてみると、確かにナラティブは分野ごとに異なる意味を持っています。かつて「ビッグデータ」が流行った時も、何をもって「ビッグデータ」と呼ぶかは、それぞれの分野で異なっていました。筆者の研究室での議論でも、ナラティブの意味が分野によって異なるようだと見えました。それでも、こんなにまとまりが見えなくても、みんなが分野に関係なく使う「ナラティブ」という言葉には、きっと共通性が、あるいはこの言葉が使われる最低要件のようなものはあるはずだ。みんなの異なる「ナラティブ」の考え方が分野を超えて網羅できれば、きっと現代の研究業界が大切だと思っている「ナラティブ」とはなんなのかがわかるはずです。
自分と異なる分野の人のバズワードの使い方をみて、「あれは違う」「これは本物ではない」という心になる前に、学術界の全体像の把握をすれば、最初うさんくさく感じたバズワードの流行も、人々の新しい道への挑戦の形跡に見えてきます。むしろ、今の人たちの情熱が、快い形で現れているように見えます。面白いな、と思います。今日の話はあくまで筆者の見立てではありますが、こんな見立てもあるのだなあ、くらいに思っていただければ幸いです。